2019年05月04日

本谷有希子「嵐のピクニック」「静かにねえ静かに」「あの子の考えることは変」「ぬるい毒」

2019.5.3〜4

56.嵐のピクニック 2012.6  弾いている私の手首の下に尖った鉛筆が近づく――。優しいピアノ教師が見せた一瞬の狂気「アウトサイド」、カーテンの膨らみで広がる妄想「私は名前で呼んでる」、ボディビルにのめりこむ主婦の隠された想い「哀しみのウェイトトレーニー」他13編。キュートでブラック、しかもユーモラス。異才を放つ著者初の短編集にして、大江健三郎賞受賞作。amazn

なにが言いたいのかわからず途中放棄(Q )) ><ヨヨ・・キュートでブラックでユーモラス・・ますます?
13の短編集。唯一、「哀しみのウェイトトレーニー」で「そうやっていつも笑っていると自分の本当の気持ちがわからなくなりませんか・・・」で、痛いって思い、けれど、ラストは夫婦仲良くなっておしまいの話がよかったなあ


2019.2.14

21.「静かにねえ静かに」(2018.8)。。意味不明( ;∀;)と思いつつ一気読み、夢中になって読み進めたのは久しぶりだ・・が意味不明( ;∀;)・・ホラーだ!!・・SNS狂騒曲



書評:読者に終わりなき思考を要求する確かな傑作評者:坂上 秋成(作家・文芸批評家)

本書におさめられている三つの作品は、すべて静かな悪意に彩られている。

「奥さん、犬は大丈夫だよね?」は、ある夫婦が別の夫婦とともにキャンピングカーに乗って旅行をする物語だ。主人公である「私」は極度のネット通販依存症であり、自分の旦那から徹底的に止めるようにと言われても自己を制御できない。そんな彼女は、ともに旅行しているメンバーがなんらかの危機に瀕した時ですら、その身を案じるのではなく、新しい買い物のきっかけができたというように考えてしまう。その病的な在り様を淡々と描く文体は非常に魅力的であり、同時に恐ろしいものだ。


でぶのハッピーバースデー」は、突然二人して職を失った夫婦の話であり、とりわけ夫は、自分たちに「いろんなことを諦めてきた人間」という印が刻み込まれていると考えている。彼は妻であるでぶの「交通事故を起こしたみたい」にぐちゃぐちゃの歯を矯正しようとするが、そこには普通の生活を取り戻したいという欲望と、何をやっても印からは逃れられないという諦念が同居しているように映る。そもそも、妻は何故でぶと呼ばれているのか。そのことに対する一切の言及がない点も、本作における夫婦関係の歪さをそっと強調している。

これら二つの作品も十分な良作だが、本書において真に傑作として扱うべきは初めに収録されている「本当の旅」だ。本作は「僕」ことハネケンと、その友人であるづっちんとヤマコの三人が、マレーシアのクアラルンプールへ旅する場面を切り取ったものである。その旅は、極端なほどに現代的だ。彼ら三人は日本を経つ前からスマホで写真を撮ってそれをグループラインで共有し、貧乏旅行こそが正しいと考え、金のある人間の旅行を「可哀想」なものとして断じる。誰かの発言に対し否定の言葉を一切はさむことなく、「わかる」と連呼して共感をアピールする彼らの姿は、自分たちの世界に陶酔し他者を排除する不愉快なものとして描かれる。

言い換えれば、これはSNS時代における「意識高い系」への批判であり、内部しか存在しない共同体に安住する人間たちへのアイロニーである。彼らは自分たちを特別な人間と捉え、「普通」の人間を見下すことで、狭い領域で互いの承認欲求を満たしている。しかし困ったことに、私たちはこうした「意識高い系」を明確に否定するロジックを構築できない。

現実にフェイスブックやインスタグラムで料理や家族の写真を投稿し、ささやかな日常に「いいね!」のサインを求める人たちを、倫理的に否定することは可能だろうか? それを否定するのは、単に異なる文化の在り様にケチをつけるだけの狭量さしか持たないのではないか? そのような疑問が、本作を読み進めるにつれて湧き上がってくる。

この小説は、ガイド本の忠告を無視して黄色いタクシーに乗り込んだ三人が、運転手の男に山中へ連れていかれ、悲劇的な結末に至ることを暗示して終わる。彼らは自分たちの置かれた危機的状況に最後まで向き合わず、自分たちを追いこむ男たちなどいないかのように、スマホで自撮りを行う。その様は極めて滑稽であり、作品を通して「意識高い系」として振る舞ってきた彼らに迫る不穏さを見るのは読み手として痛快でもある。

しかし、それを痛快と感じた瞬間、読者である我々は、まぎれもなく違法性を伴った暴力の側に加担している。「意識高い系」の行動に苛立ちを覚える中で、暴力を行使する側に読者を同調させてしまうという構造にこそ、この小説の文学的企ての本質が凝縮されていると言えよう。

正当な悪意とは何か、読者はどこまで正義の側に立てるのか。そのような疑問を常時突きつけてくるという意味で、本書は確かな傑作であり、読者に終わりなき思考を要求するものである。


2018.9.22

96「あの子の考えることは変」2009年・・感想、あなたの考えることも変??かなあ

“前代未聞のカタルシス。著者初の友情小説” 岸田&鶴屋南北賞受賞の気鋭が拓く小説の新境地。汚い日田とおっぱいだけが取り柄の巡谷、おかしな二人のヘンテコで切ない共同生活。
内容(「BOOK」データベースより)
汚くって可愛い前代未聞の青春エンタ!芥川賞ノミネート作品。 https://www.amazon.co.jp/あの子の考えることは変-本谷-有希子/dp/4062156385






2012.1/7本谷有希子「ぬるい毒」2011.6

鈍く燃える自意識の火が、やがて私の人生を静かに焼き尽くす。

ある夜とつぜん電話をかけてきた、同級生と称する男。嘘つきで誠意のかけらもない男だと知りながら、私はその嘘に魅了され、彼に認められることだけを夢見る――。「私のすべては二十三歳で決まる」。なぜかそう信じる主人公が、やがて二十四歳を迎えるまでの、五年間の物語。本谷有希子ワールドを鮮やかに更新する飛躍作!

本谷有希子『ぬるい毒』|新潮社

固い日常に切れ目を入れる「毒」


岩宮恵子


 思春期は、いったいいつ終わるのだろう。十五歳? 十八歳? この『ぬるい毒』の主人公、熊田由理は、その時期を二十三歳と予感していた。「私のすべては二十三歳で決まる」「二十三歳で魂が死ぬ準備をずっとし続けてきた」と由理は独白する。地味でイケてないサナギ状態で高校時代を過ごし、短大生になったときから美しい蝶へと脱皮した由理にとって、その華やかな脱皮は決して思春期の終わりではなかった。
 この物語は、高校の同級生と称する向伊という男性から、十九歳になった由理に突然電話がかかってきたところから始まる。向伊は、魅力的な外見と話術を兼ね備えた、強力な吸引力をもつ男であるが、由理に甘い嘘をつき、言葉巧みにいたぶっていく。由理の一人称の語りなので、実際の向伊の意図はどこにあったのかわからないが、由理にとって向伊はそういう毒のある男として存在していたということだろう。このように、この物語は男女の機微に関する緻密な描写から始まっているので、これは恋愛における「毒」をめぐって展開していくのだろうかと思って読み進めていたのだが、そのような読み筋だけで済ませられる作品ではなかった。
 高校時代の由理のこころは「地味」「イケてない」というサナギで守られていたため、あばかれたりすることもなかったに違いない。ところが、向伊という男性の侵入をきっかけに、サナギ時代の自分を揶揄され、今の自分をことさらに持ち上げられるという刺され方でこころの皮膚に傷がついていく。そうすると、まだまだ形をとりかねてドロリとしているこころの内容物がその傷から溢れてくる。自分について、そして自分が他者にどう見られているのかについて、どこまでも際限なく考えが拡散し、いつしかそれは妄想的な色彩を帯び、現実との接点を見失いそうになる。虚実の境目がなくなる「狂」の世界の語りに入っていくのである。
「狂」は、ただ気が狂うという意味ではない。漢文学者の白川静によると、「狂」の字は、日常性を超えた力がその内にあることを表しているらしい。「狂」は日常的なものをすべて否定する力を持っている。その個人にとって、日常自体が病んでいると感じられるとき、それを壊して改革へ向かわせるのが「狂」の力なのだ。この「狂」の力は、日常性のなかに埋没してしまうことを強烈に恐れる思春期の心性と、非常に親和性が高い。「狂」は日常性を超え、魂の輝きに触れる力でもある。しかしその力は破滅と改革のギリギリのせめぎ合いになり、どちらに転ぶかわからない危うさを含んでいる。
「狂」の毒は極めて危険である。由理はそこに触れる限界を二十三歳と定めている。そして冷徹な観察眼をどんな時にも失わない。それは日常への帰還を果たすためには必須の安全弁であるが、その客観能力は「狂」への没入を妨げ、どこかで「ぬるい」ものになってしまう。この物語で語られたものは「ぬるい毒」に過ぎないのだと「狂」の毒の力を知る著者は、タイトルにそれを刻印しておきたくなったのではないだろうか。
 この物語を読み、その「狂」の毒に触れることによって、私たちの固い日常に切れ目が入る。その切れ目から何かが拓けていくような、思春期の鵺に惑わされるような、不思議な風景がちらりと見える。それが微かに私たちの日常に変化を与えるのだ。
 ラスト一頁でその切れ目は著者によって見事にぴたりと閉じられる。そして二十三歳まで引き延ばされた思春期の喪失の重みが、深い余韻として響いてくる。


(いわみや・けいこ 臨床心理士)

本谷有希子『ぬるい毒』|書評/対談|新潮社

本谷有希子(もとや ゆきこ、1979年7月14日 - )は、日本の劇作家、演出家、女優、声優、小説家。石川県出身。「劇団、本谷有希子」主宰

1979年、石川県白山市に生まれる。石川県立金沢錦丘高等学校時代に演劇部に所属。上京後、ENBUゼミナール演劇科に入学、松尾スズキのクラスに在籍する。在学中より主に舞台において女優活動を開始。

1998年、アニメ『彼氏彼女の事情』で声優デビュー。ENBUゼミを見学に来ていた監督の庵野秀明が、庵野を見て騒ぐ生徒たちの中で一人憮然とした態度を取っていた本谷を気に入ったためのオファーであった。このときの役は、「文化祭で上演する劇の台本を書く」少女の役であった。

2000年9月、「劇団、本谷有希子」を創立。劇作家・演出家としての活動を開始する。2002年、『群像増刊エクスタス』に「江利子と絶対」を発表し小説家デビュー。サイトで連載していた小説を読んだ編集者が声をかけたことがきっかけとなった。

2005年4月から2006年3月までの1年間、ラジオ番組『本谷有希子のオールナイトニッポン』のパーソナリティを務めた。この番組がきっかけで彼女を知った人も多い。2005年には、小説『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』が第18回三島由紀夫賞候補となる。

2006年、小説『生きてるだけで、愛。』で第135回芥川龍之介賞候補となる。

2007年、『遭難、』で第10回鶴屋南北戯曲賞を史上最年少で受賞、小説『生きてるだけで、愛。』が第20回三島由紀夫賞候補となる。同年『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』が佐藤江梨子主演で映画化された。

2008年、小説『遭難、』で第21回三島由紀夫賞候補となる。

2009年、「幸せ最高ありがとうマジで!」第53回岸田國士戯曲賞(白水社主催)を受賞。「あの子の考えることは変」で第141回芥川賞候補となる。

2011年、小説『ぬるい毒』で第24回三島由紀夫賞候補、第145回芥川賞候補、第33回野間文芸新人賞受賞。

人物 [編集]卒業公演の際、「在学中に何もやっていない」という焦りから台本執筆を買って出たところ、松尾スズキに「役者よりも台本を書いた方がいいかもね」と言われ、これが執筆活動を開始するきっかけとなった。劇団旗揚げ後の一時期はメディアに“松尾チルドレン”として一括りにされることを嫌い、松尾と接点を持たないようにしていたという。2006年に「生きてるだけで、愛。」が芥川賞候補になった際にも松尾との作風の類似が指摘された[1]。現在では松尾がスーパーバイザーを務める季刊誌『hon-nin』に小説を寄稿するなど、接点を回復している。このことについて本谷は「ようやく違うぞ、と余裕が出てきた」と述べている。

小説の書き方について本谷は、書きあげている最中は完全に登場人物になりきってしまうと言っている。本谷の友人いわく、「執筆中に会うと作品ごとに別人格になっている」ほどである。また、感情移入するのは主人公だけではなく登場人物全般で一人称より三人称が得意だとも語っている[2]。

声優の能登麻美子とは同郷の友人で、地元時代は同じ劇団に所属していた事がある。のちに『QuickJapan』vol.59で対談を行なっている。

本谷有希子 - Wikipedia
posted by りょうまま at 05:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 本谷有希子 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする