2017年07月17日

「最愛の子ども」「犬身」松浦理英子

2017.7.17(月)

犬身(kensin)(2007年)


2017.7.12(水)〜

最愛の子ども 文学界2017.2

パパ、ママ、王子……3人の女子高生が擬似ファミリーを築く傑作小説
幸福な「ファミリー」に擬せられた三人の女子高生をめぐるこの物語は、「わたしたち」という珍しい主語で語られる。

「わたしたち」というのは、主たる登場人物三人を目撃する級友の集合体で、特定のだれかは最後まで顔を出さない。作中の言葉を借りれば、「小さな世界に閉じ込められて粘つく培養液で絡め合わされたまだ何ものでもない生きものの集合体を語るために」、この主語が選ばれたという。すみずみにまで目を光らせ、「わたしたち」は物語をいきいきと語り続ける。

「わたしたち」の声は、時にギリシャ悲劇のコロスを、あるいは王朝文学の女房たちを連想させたりもするが、日夏(ひなつ)や真汐(ましお)の視点に立つ場合は、これから妄想する、捏造をする、とあらかじめ言いおいてから、するりと内部に入り込んで語り続ける。あやふやさや、話を面白く膨らませることもある、一種メタフィクショナルな語り手であるのが面白い。

権威に衝突しがちで意固地なところのある真汐と、人気者で際立って何でもできるが、どこか醒めている日夏。中等部時代に深く結びついた二人に高等部から入学してきた極端に受動的な空穂(うつほ)が加わって、親密な三人の関係は「ファミリー」と呼ばれ、大切なロマンスとして共有され語られることになる。

当然のことながら彼女たちには家族がいる。自分たちで選びとった「ファミリー」に比べると、日夏も、真汐も、空穂も、現実の家族に不全感を抱えている。そして三人の関係性も不動のものではない。なりたちから変容、途絶までを「わたしたち」は見守る。関係に力ずくでヒビを入れるのは現実の家族で、結果として日夏は王国を出る選択を迫られる。

著者は、初期の代表作『ナチュラル・ウーマン』で、女性同士の性愛を描いた。形のまだ定まらない官能を描く『最愛の子ども』を読んで、『ナチュラル・ウーマン』の女性たちの少女時代を読んだような錯覚に一瞬、とらわれたが、二〇一一年までの数年と時代が設定された『最愛の子ども』の日夏や真汐は、彼女らの子どもの世代にあたるのだ。

作中で「わたしたち」の一人である美織の母親が、「あの人」について言及する場面が印象に残る。詳しくは語られない「あの人」は、『ナチュラル・ウーマン』の花世や容子であるかもしれない。『最愛の子ども』は、『ナチュラル・ウーマン』の作者から「道なき道を歩め」と子ども世代に手渡される、慈しみを込めた青春小説である。
評者:佐久間 文子
(週刊文春 2017.06.15号掲載)


内容紹介
日夏(ひなつ)と真汐(ましお)と空穂(うつほ)。
夫婦同然の仲のふたりに、こどものような空穂が加わった。
私立玉藻(たまも)学園高等部2年4組の中で、
仲睦まじい3人は〈わたしたちのファミリー〉だ。

甘い雰囲気で人を受け入れる日夏。
意固地でプライドの高い真汐。
内気で人見知りな空穂。

3人の輪の中で繰り広げられるドラマを、
同級生たちがそっと見守る。
ロマンスと、その均衡が崩れるとき。
巧みな語りで女子高生3人の姿を描き出した傑作長編。最愛の子ども 単行本 2017/4/26松浦 理英子 (著)

特集「保坂和志」/松浦理英子「最愛の子ども」第156回芥川賞は山下澄人「しんせかい」(「新潮」2016年7月号、新潮社刊)に決まった。初出時にこの時評でも取り上げて、「願わくば、この小説の清新さと大胆さが真っ当に評価されますように」と書いた身としては、我(わ)が意を得たりという気持ちである。4度目のノミネートでの受賞でもあり、順当な結果と言えるだろう。個人的な感慨としては、山下が研鑽(けんさん)を経て遂(つい)に栄冠を射止めたというよりも、やっと芥川賞が「しんせかい」のような作品に賞を与える時代になった、という思いの方が強い。今回から吉田修一が加わって選考委員が総勢10名になったわけだが、現在の顔ぶれは読み巧者が揃(そろ)っていると思う。言うまでもないことだが、優れた小説家だからといって他人の小説をよく読めるとは限らない。その意味で、現在の選考委員会は信頼に足る。芥川賞はしばらく「ブレない」だろう。
 「三田文学」冬季号の特集は「保坂和志」。私も論考を書いているのでここで触れるのはいささか気が引けるが、雑誌誌面での1人の作家の特集としては稀(まれ)に見る気合の入ったものになっている。まず保坂本人が新作短編「ある講演原稿」と新連載エッセイ「TELL TALE SIGNS」第1回を寄稿している。それから保坂と安藤礼二のおそらく初の対談。磯崎憲一郎が保坂について語った公開インタビューの採録。そして新芥川賞作家山下澄人による長文のエッセイ「保坂さんの本を読んでぼくは小説を書くようになった」。その他、岡英里奈、石川忠司、千葉文夫、鈴村和成、土田知則、岡谷公二、私の論考。保坂は昨年秋に短編小説集「地鳴き、小鳥みたいな」とエッセイ集「試行錯誤に漂う」を続けて刊行したばかりだが、その精妙繊細な大胆不敵ぶりにはますます磨きがかかっている。磯崎と山下もそうだが、保坂の影響や薫陶によって世に出た小説家は何人も居る。現在の日本文学において、保坂和志は孤立しつつ(保坂はいわゆる「文壇」とは自ら断絶しているように見える)も強力な磁場を形成している。山下澄人の芥川賞受賞によってその磁場はより鮮明になったというべきだろう。もちろん、これは派閥や人脈的な力学の問題ではない。「小説」の問題、そして「文学」の問題である。
 □ □
 松浦理英子の4年ぶりとなる書き下ろし長編「最愛の子ども」(「文学界」2月号)は、この極めて寡作の作家が真に途方もない才能の持ち主であることをまざまざと見せつける鮮烈な傑作である。共学だが男女が別々のクラスに分けられた学園の高等部に通う、17歳の女子高生たちの物語である。反抗心が強く時に問題を起こす今里真汐と、人気者なのに常に超然としている舞原日夏、この2人は「わたしたち」の中で「妻」と「夫」と呼ばれている。とはいっても日夏=夫と真汐=妻は性的な肉体関係を結んでいるわけではない。かといってごく普通の友情の延長線上にあるのでもない、もっと名付けがたい、曖昧だがそれゆえに深く固い感情の紐帯(ちゅうたい)のようなものが2人の間には存在する。2人の仲は中等部の頃からだが、高校生になって「子ども」が出来(でき)る。薬井空穂は不器用な小動物のような少女であり、皆と同い年なのに何につけ異常とも思えるような受動性を発揮する。空穂は「わたしたち」によって「王子様」と名づけられる。夫と妻と子。この〈わたしたちのファミリー〉の成り行きが、たくらみに満ちた筆致で描かれてゆく。
 たくらみ、というのはまず何よりも、この「わたしたち」という一人称複数形に因(よ)っている。この小説の語り手である「わたしたち」は、〈わたしたちのファミリー〉のクラスメイトである、それぞれに名前と性格を与えられた何人かの女子高生たちの集合体であり、その中の誰であるとは明示されない。そして更(さら)に「わたしたち」は「わたしたち」が直接知る筈(はず)のない〈わたしたちのファミリー〉の内輪の出来事や、真汐と日夏と空穂の心中までも、もっぱら伝聞と妄想によって詳細に記していくのである。とりわけ後半、3人の関係が少しずつ、やがて音を立てて変化していくに至って、それが現実に起こったことなのか、それとも「わたしたち」の想像でしかないのかが、判然としなくなっていく。しかも驚くべきことは、このような超絶技巧と言ってよい技を駆使しながら、この小説は、取っ付きにくい実験性とは無縁の、めくるめく面白さを有しているのである。
 松浦理英子は、デビューから一貫して、性愛にも精神性にも偏らない、だが単純な意味でその中間にあるわけでもない同性愛のかたちを描き続けてきた。それは一見、特異なすがたに見えるが、しかしすこぶるリアルでもある。むしろ、このような愛のあり方こそが、理想ではなく、真実なのではないか。「最愛の子ども」を読んで考えたのは、このようなことである。
(佐々木敦 ささき・あつし=批評家)=2017/01/28付 西日本新聞朝刊=2017年02月01日 03時05分

最愛の子ども [著]松浦理英子 [評者]蜂飼耳(詩人・作家)[掲載]2017年06月18日恋愛?友情?友愛? いいえ…

 世の中には恋愛や友情や友愛といった言葉があって、誰でも使うことができる。けれど、人と人との関係をじっと見つめるなら、どれも恐ろしいほどに唯一のものであり、本来的には名付けることなどできはしないのだと気づく。
 松浦理英子のこの小説に出てくる少女たち、玉藻学園高等部二年四組のクラスメイト〈わたしたち〉は、三人から成る〈ファミリー〉を設定する。疑似家族。その様子を日々眺めて慈しむ。日夏はパパ、真汐はママ、空穂は王子様(子ども)だ。各自が現実に抱える、家族との摩擦や葛藤、苦痛と傷。見えない将来をぼんやりと思い描きながら、少女たちは目の前に展開する現在を抱きしめ、自分なりの方法で愛する。
 「日夏は触り方がうまいというか触れられた者が気持ちよくなる触り方をすることは、わたしたちも身をもって知っている」。少女たちの身体的接触に、これほど優雅で安らかなかたちを与えられる作者は他にいないだろう。三人の関係も生き物のように変化する。真汐の胸に、疎外感がひろがる。日夏がいなくなる日を想像し、真汐は「心を鍛える」ことを決意する。「やがてはわたしの心は何があっても壊れないほど強く鍛えられるだろう」。危ういバランスや外側からは気づかれることのない心情の変化が、じつに繊細に捉えられ、描かれる。
 少女たちは卒業後の離別を予感している。それでも、儚(はかな)いからこそ強いといえるほどの関係が、ここには確かにある。空穂の母・伊都子さんが娘と日夏の関係を非難し、事態は大きく変化するのだが、騒ぎの中にあっても少女たちはどこかクールだ。混乱と困難を淡々と受け止めて溶かしてしまうようだ。全体が〈わたしたち〉によって集められた情報やエピソードから成る、という姿を持つ小説。名付けることのできない関係は、名付けないまま生きればいいと、この小説の姿は強く告げている。
    ◇
 まつうら・りえこ 58年生まれ。08年『犬身』で読売文学賞を受賞。著書に『親指Pの修業時代』『奇貨』など。

松浦 理英子(まつうら りえこ、1958年8月7日[1] - )は、日本の小説家。
愛媛県松山市生まれ[2]。父親の勤務の関係で、幼少期を四国地方の各地で過ごす[3]。中学生の時に香川県丸亀市に移り、丸亀西中学から大手前高校を経て、青山学院大学文学部仏文科卒業[4]。10代よりマルキ・ド・サド、ジャン・ジュネなどを愛読し、仏文科を志望したのもジュネを原語で読むためであった。大学在学中の1978年、「泣き屋」と「笑い屋」との奇妙な交流を描く「葬儀の日」で文學界新人賞を受賞、芥川賞候補になる。1987年、レズビアンを描いた『ナチュラル・ウーマン』が中上健次の絶賛を受け注目される。
1993年11月、河出書房新社より長編小説『親指Pの修業時代』を上下巻で刊行。同作品は右足の親指がペニスになってしまった女性の遍歴を描き、「ペニスを男根主義から解放する」ことを謳った。1994年、女流文学賞受賞。同作品はベストセラーとなり、映画化の話が持ち上がった。また、2009年には講談社インターナショナルより英訳版『The Apprenticeship of Big Toe P』が刊行された。翻訳はマイケル・エメリック。
小説、エッセイとも一貫して、性愛における「性器結合中心主義」への異議を唱え続けている(一般的な意味での「フェミニスト」ではない)。寡作な作家であり、『親指Pの修業時代』から次作『裏ヴァージョン』まで7年、『犬身』までさらに7年が費やされた。2007年発表の『犬身』では、子犬に転生した女性を通じて種を超えた愛情を描き、翌年に読売文学賞を受賞した。現在は文學界新人賞(2007年 - )、野間文芸新人賞(2008年 - )選考委員。 犬好き。また女子プロレス愛好家であり、特にブル中野のファンである。
1978年、「葬儀の日」で文學界新人賞を受賞。同作で芥川賞候補にも。
1979年、「乾く夏」で芥川賞候補に。
1988年、「ナチュラル・ウーマン」が中上健次の特別推薦で三島由紀夫賞の候補に。
1993年、「親指Pの修業時代」で三島由紀夫賞候補に。
1994年、「親指Pの修業時代」で女流文学賞を受賞。
2007年、「犬身」で読売文学賞を受賞。センス・オブ・ジェンダー賞の大賞にも選ばれるが、辞退。
著作[編集]
葬儀の日(1980年8月 文藝春秋 / 1993年1月 河出文庫)
セバスチャン(1981年8月 文藝春秋 / 1992年7月 河出文庫 / 2007年12月 河出文庫【新装版】)
ナチュラル・ウーマン(1987年2月 トレヴィル / 1991年10月 河出文庫 / 1994年10月 河出書房新社 / 2007年5月 河出文庫【新装版】)
親指Pの修業時代(1993年11月 河出書房新社 / 1995年9月 河出文庫 / 2006年4月 河出文庫【新装版】)
ポケット・フェティッシュ(1994年5月 白水社 / 2000年7月 白水Uブックス) - エッセイ集
優しい去勢のために(1994年9月 筑摩書房 / 1997年12月 ちくま文庫) - エッセイ集
おぼれる人生相談(1998年12月 角川書店 / 2001年4月 角川文庫) - 『月刊カドカワ』連載の人生相談コーナーの書籍化
裏ヴァージョン(2000年10月 筑摩書房 / 2007年11月 文春文庫)
犬身(2007年10月 朝日新聞社 / 2010年9月 朝日文庫)
奇貨(2012年8月 新潮社 / 2015年2月 新潮文庫)
最愛の子ども(2017年4月 文藝春秋)
共著[編集]
おカルトお毒味定食(1994年8月 河出書房新社 / 1997年4月 河出文庫) - 笙野頼子との対談
posted by りょうまま at 23:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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