2017年02月22日

中島義道「ふつうから遠く離れて」「哲学者というならず者がいる」「人生、しょせん気晴らし」「わたしの嫌いな10の人々」

2017.2.15

40「ふつうから遠く離れて」2016

P166・・・幸福とは思考の停止であり、感受性の麻痺である。つまり、大いなる錯覚である。世の中には、この錯覚に陥っている人と陥りたいと願う人と、陥ることができなくてもがいている人と、陥ることをあきらめている人がいる。ただそれだけである。


2017.1.11(水)

10.わたしの嫌いな10の人々(2006年)

  笑顔の絶えない人、常に感謝の気持ちを忘れない人・・ETC

p13・・この国では個人のむき出しの感情を嫌う・・p15、笑顔の絶えない顔を好む日本人の傾向は、走光的に明るいことを望む現代日本人の傾向に呼応する。


2017.1.7(土)1/14(土)

8.人生しょせん気晴らし

P29・・なんで世界はこんなに矛盾と理不尽に満ちているのだろうと思うと心は癒されるのだ。どんなに懸命に生きても、みな死んでしまい、人類はやがて滅びてしまう、と実感すると心は平静になるのだ。

P46・・言葉の持つ力とは不思議である。もう死ぬしかないと崩れそうになっても、ある短い言葉が、私のさしあたり明日も生きようと思う力を授けてくれるのだから。

P56・・大人とは他人をせめ社会をせめて万事収まるはずがないことがよくわかっている者、人生とはある人は理不尽に報われある人は理不尽に報われない修羅場であること、このことをひりひりするほど知っているものである。正しい人が正しいゆえに排斥されることがあり、いわゆる悪い奴がのほほんとした顔でのさばっていることもあり・・現実をしっかり直視する勇気を持つ者、それが社会的に成熟した大人であると思う。
・・・理不尽にいじめにあい、理不尽に職を失い・・「なぜ自分が?」という問いは虚空にこだまし、答えが返ってくることはない。こうしたとき、この「なぜ」を消すことなく、答えのない問いを大切にして生きること、それがおとなとして生きることなのだ・・・人生の理不尽を変えられないのなら、いっそ渦の中心めがけて身を投げ出しその微妙な襞まで味わい尽くすくらいの気概があってもいいのではないか。それが正真正銘の大人というものである。

p65・・哲学はつねに人間の基本的な枠組みに対して疑問をもつところから出発します。大多数の人がきれいごとで済まそうとすることを切り崩してゆく・・

2017.1.5(木)

4.「哲学者というならず者がいる」(2007.2.25)

p9〜よく言われることであるが「哲学」という訳語は適切でないように思う。・・・「愛知」には「哲学」によってはあらわせないどんな側面があるのだろうか。それは、何よりも「知を愛する」という態度である。「愛する」とは好きでたまらないという意味ではなく渇望する、恋焦がれるという意味である・・

p137・・私が言いたいこと、それはみんなと同じように感じ、みんなと同じように怒ることはとても簡単なこことだ。だからほとんど価値のないものだ。いやそれ自体、害を及ぼすものだ、ということである。・・・どの時代どの社会においてもじつは「善い」とは何か「悪い」とは何かを知ることは恐ろしく難しいということを徹底的に認識することである。ルールに従っていれば警察には捕まらないが、それでいいのか、という問いであり、ルールに従わないとなぜいけないのかという問いであり・・・・

p167・・・第一に「いまここ」で起こっている事象をよく見ること、断じてそこから逃げたり視線を逸らせたりしないこと。第二に、自分の内なる差別勘定を正確無比にとらえること、けっしてごまかさないこと。第三に、差別勘定を有する自分の(心の)胸に短刀を突き刺し、血を流し、苦しむこと。・・
posted by りょうまま at 23:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 小説 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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