2015年03月04日

百田尚樹「錨をあげよ」上「海賊と呼ばれた男」

2015.3.3

30.「錨をあげよ」(2010.11)

2014.9.23

海賊と呼ばれた男(上)2012.7

歴史経済小説。

主人公の国岡鐡造は出光興産創業者の出光佐三をモデルとしている。国岡鐡造の一生と、出光興産をモデルにした国岡商店が大企業にまで成長する過程が描かれている。2014年1月現在、上下巻累計で170万部を目前としたベストセラーとなっている。

2013年4月、第10回本屋大賞を受賞した。

海賊とよばれた男 - Wikipedia

P209・・・明治40年、鐡造は東北を旅した。・・秋田市の八橋という地に油田が発見され開発が始まったという記事を読んだ。鐡造は秋田に向かった・・原油はそれだけではランプにも機械油にも使えない、蒸留(いったん気化させてから液体化する)装置を使って、不純物を取り除くなどして精製し「石油製品」にしなければならない。このころ石油は輸送が大変なため需要増大の見込みはないと考えられていた。
p216・・鐡造は「。。商人になりたいです。中間搾取のない商いをしたいと思っています。生産者から直接消費者に販売したいんです。大地域小売業です」・・こういう商売はたくさん人でが必要で効率が悪い

日田重太郎・・淡路島の資産家だが実家との折り合いが悪く神戸に移りすむ。32歳だが仕事はせず茶や骨董をたしなむ風流人。鐡造の考えに興味を示し、鐡造に息子・重一の家庭教師を依頼してみる。わがままだった重一は半年後見違えるようになり「あいつは人を育てる才能があるのかもしれん」と思う。

◆明治42年、神戸高商を卒業し鐡造が就職したのは神戸の酒井商店という従業員3名の個人商店だった。店主は酒井賢一郎、小麦と油の商いをしていた。丁稚をして3年後、台湾への小麦の売り込みをまかされた。
神戸から台湾へ空荷で帰る船を使うという方法で小麦の売り込みに成功させ

◆明治44年、久しぶりに郷里・九州の赤間村へ戻った
しかし、父が商売に失敗、借金の保証人もしていたことで村にはいられなくなり夜逃げ、家族はばらばらになっていた。これを機に鐡造は独立をしたいと思うようになる。日田は京都の別宅を8千円で売って内6千円を
鐡造にくれるという
条件は3つ
「家族で仲良く暮らすこと」「自分の初志は貫くこと」「このことは他言無用」

◆明治44年、25歳・・九州の門司で「国岡商店」を立ち上げた。曲がりした事務所の壁には「土魂商才
の額が掲げられた。神戸高商の水島校長から贈られた言葉だった。

日邦石油から機械油をおろしてもらい商売を始めた。
日田も門司に越してきた。京都の別宅を売ったことでさらに折り合いは悪化。神戸にいられなくなったのだった。

◆明治45年、明治紡績へ油を売りにいった。経営者は「安田清三郎」技師は「岡田音二郎」
父親の助言のもと、油の調合を変えることでようやく機械油の発注を受けることができた。創業から1年後のことだった。

◆P273〜。。「そろそろ身を固めないか」と叔父の安一(父・徳三郎の兄)から縁談の話がきたのは、創業から3年後、大正2年の秋、鐡造29歳のとき。

結婚への助言を日田に求めると、日田は
「夫の苦労を一緒に背負える嫁をもらえたら果報者や・・夫もまた妻の苦労を背負ってやる覚悟やないとあかん」

12月24日、春日ユキと祝言を上げた。ユキは美しいく、明るい女性だった。反面気の強い面もあった
がんばったが、業績はなかなか上がらず
独立して4年目、日田からもらった資金が底をついた・・
日田は神戸の家をうればお金はできる・・とことんやってみようや。。という

◆海上給油で成功し、大正3年9月、手狭になった店の引越しを行った。家族と考えて店員たちへの指導も献身的に行った。
第一次世界大戦が勃発し、揮発油(ガソリン)に関心を持つ。
さらに販路を満州へと求め始める
posted by りょうまま at 16:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 百田尚樹 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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