2011年06月23日

諸田怜子「お順 勝海舟の妹と5人の男」 jj

◆「ここぞというときにやらねば運を逃す。お順坊にもそういう大事なときが必ず巡ってくる。逃すな。つかみとれ。とことんやるんだ」(116ページ)・・・昼夜を問わず写本に没頭する兄・勝燐太郎(海舟)の健康を心配するお順に話した言葉

◆「うまくいかないことを、上手くゆくようにするには、忍耐しかない。だれになんと言われようと、ただ、じっと我慢するのさ・・」155n・・・高野長英がなくなったとき・・

6/17諸田怜子お順 勝海舟の妹と5人の男」(2010年11月)

自らの意思を貫き愛に生きたおきゃんな江戸娘・お順(勝燐太郎の妹)の波乱な生涯・・父・勝小吉、初恋の人・島田虎次郎、夫・佐久間象山、兄・勝燐太郎(海舟)、謎の剣客・村上俊五郎・・吉田松陰坂本龍馬、土方蔵三らも登場する幕末から明治を描く長編歴史小説

・よくも悪くも勝家の人間は熱中すると抑えの効かない質である。何事にも猪突猛進。いまや勝燐太郎(海舟)は剣術から蘭学へ、小吉は放蕩から物書きへ一心不乱になっていた

カズキの小説でくたびれたところには最適!!元気で明るい気分になれそうな本


上巻(6/22に読了)・・お順5歳から20歳まで。12歳年上の虎之助と結婚の約束をしたものの虎之助は病に倒れて死亡。半年後、25歳年上の佐久間象山と結婚(お順19歳)・・

下巻・・

◆ときは天保11年(1840年)、江戸。色白の丸顔と形のよい唇は母信譲り、ひとえまぶたの済んだ目とすんなりした鼻は父・小吉譲り、美男美女ぞろいの勝家三兄弟の末っ子・順は5歳・・愛くるしい顔とは裏腹に愛嬌に乏しく勝気で強情。

◆父・小吉・・謹慎中・家督を長男の燐太郎(海舟)に譲って隠居の身

◆母・信

◆長男・勝燐太郎(海舟)
鹿は足が速い。遠方を見渡す澄んだ眸とかすかな気配を聞き取る耳を持っている。争いことから身をかわし、野山を駆け巡って、遠国を見渡す男になってほしいのさ」のびやかに駆けよ、遠くを見ろという。無役の悔しさから放蕩に奔った父親を見てきた実感。剣術に明け暮れていたときにはわからなかった。蘭学に励み、異文化に目を向けて初めて抱いた感慨に違いない(205n)・・・破天荒な小吉と暮らしていたせいか他人を型にはめてみようとしない鷹揚さがある。他人は他人、己は己と割り切り超然としていた。大言壮語を有言実行に変えてしまう努力の人。自信家でほらふき、実は努力と忍耐の人。物事を理路整然とくみたてて一歩一歩着実に前進する。情にほだされて道をふみはずすことはしない。

◆長女・はな・・あっという間に見初められて下級武士の妻に。

◆佐久間象山・・・順の夫。25才違い。「よくも悪くも自惚れのかたまりだった。自信といいかえてもよい。自分の才にも言動にもみじんの疑いも抱いていない。自分が正しいとわかっているからいついかなるときも大真面目である。まっすぐにゆるぎなくただひたすら突き進む。とてつもない男と夫婦になったものだ。退屈にしている暇はなさそうだ251n」「象山先生は、だれにもわけへだてなく、もったいぶらず、それは熱心に教えてくださいます252n」「家中での象山の評判は芳しくなかった。大柄で筋肉質の体つきも、長いあごひげを蓄えた異相も、古色蒼然としたいでたちも、生真面目で冗談ひとつ言わない正確もともすれば尊大に見られる。象山は3歳にして字を書き、易の六十四掛を暗唱したという。並外れた才の持ち主である。その才を主家のために役立てたい、自分ならそれができると信じていた。信じるだけならよいが自惚れやはなにごとも強引に押し通す。他人の思惑を解さない263n」



6/22、上巻読了・・お順と虎之助が恋仲となったころから俄然読むスピードはUP。おもしろかった・・昨年、夢中になった坂本龍馬も登場・・佐久間象山の塾にやってきた坂本龍馬は、すらりとした体つきで明るい瞳をした、好奇心のかたまりの若者だった(すぐに福山雅治をイメージ・・)・兄の勝燐太郎(海舟)を紹介してほしいとの会話・・・



諸田怜子(もろた れいこ、1954年3月7日 - )は、日本の小説家。

1954年、静岡県静岡市に生まれる。
上智大学文学部英文科卒業。フリーアナウンサー、化粧品会社勤務を経て、テレビドラマのノベライズや翻訳を手がけた後、作家活動に入る。
2000年、『幽恋舟』で第13回山本周五郎賞候補、『誰そ彼れ心中』で第21回吉川英治文学新人賞候補。
2002年、『源内狂恋』で第15回山本周五郎賞候補、『あくじゃれ瓢六』で第126回直木三十五賞候補、『笠雲』で第23回吉川英治文学新人賞候補。
2003年、『其の一日』で第24回吉川英治文学新人賞受賞。
2007年、『奸婦にあらず』で第25回新田次郎文学賞受賞。
2009年、『美女いくさ』で第15回中山義秀文学賞候補。

諸田怜子オフィシャルサイト

★★★

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東日本大震災(2011.3.11)
東日本大震災・2001.3.11
佐久間象山(さくま しょうざん(ぞうざん))は、日本の武士(松代藩士)、兵学者・思想家。松代三山の一人。通称は修理、諱は国忠(くにただ)、のちに啓(ひらき)、字は子迪(してき)、後に子明(しめい)と称した。贈正四位。象山神社の祭神。文化8年(1811年)2月28日、信濃松代藩士・佐久間一学の長男として生まれる。

象山は西洋兵学の素養を身につけることに成功し、藩主・幸貫に「海防八策」を献上し高い評価を受けた。また、江川や高島秋帆の技術を取り入れつつ大砲の鋳造に成功し、その名をより高めた。

これ以降、象山は兵学のみならず、西洋の学問そのものに大きな関心を寄せるようになる。嘉永2年(1849年)に日本初の指示電信機による電信を行ったほか、ガラスの製造や地震予知器の開発に成功し、更には牛痘種の導入も企図していた。嘉永6年(1853年)にペリーが浦賀に来航した時も、象山は視察として浦賀の地を訪れている。

嘉永7年(1854年)、再び来航したペリーの艦隊に門弟の吉田松陰が密航を企て、失敗するという事件が起こる。象山も事件に連座して伝馬町に入獄する羽目になり、更にその後は文久2年(1862年)まで、松代での蟄居を余儀なくされる。

元治元年(1864年)、象山は一橋慶喜に招かれて上洛し、慶喜に公武合体論と開国論を説いた。しかし当時の京都は尊皇攘夷派の志士の潜伏拠点となっており、「西洋かぶれ」という印象を持たれていた象山には危険な行動であった(しかも京都の街を移動する時に供も連れなかった)。7月11日、三条木屋町で前田伊右衛門、河上彦斎等の手にかかり暗殺される。享年54。

現在、暗殺現場には遭難之碑が建てられている

象山は自信過剰で傲慢なところがあり、それ故に敵が多かった。数々の業績を残したにも関わらず現在に至るまで彼の評価が低いのも、性格に由来するところが大きいとも言われる。しかし当時の日本において、象山は紛れもない洋学の第一人者だった。彼を暗殺した河上彦斎は後に象山の事歴を知って愕然とし、以後暗殺をやめてしまったという。更に彼の門弟には前述の吉田松陰をはじめ、小林虎三郎や勝海舟、河井継之助、橋本左内、岡見清熙(慶應義塾の前身である蘭学塾を開設した人物)、加藤弘之、坂本龍馬など、後の日本を担う人物が多数おり、幕末の動乱期に多大な影響を与えたことも事実である。

自らを「国家の財産」と自認しており、坂本に「僕の血を継いだ子供は必ず大成する。そのため、僕の子供をたくさん生めるような、大きな尻の女を紹介してほしい」と頼んだこともある。しかし、彼の息子三浦啓之助も象山に同様素行が悪く、大成するどころか新選組を脱走する事態を招く。

勝の妹、順が嘉永5年(1852年)に象山に嫁いだので勝は義兄となったが、傲慢な象山をあまり高く評価していない。氷川清話によると、「あれはあれだけの男で、ずいぶん軽はずみの、ちょこちょこした男だった。が、時勢に駆られて」云々とけなしている。

和歌や漢詩、書画に巧みだった。岸辺成雄著『江戸時代の琴士物語』によれば、七絃琴や一絃琴も好んで奏でていたという。

嘉永4年(1851年)に江戸で大砲の演習を行ったが、砲身が爆発して周囲から大笑いされた。しかし象山は「失敗するから成功がある」と述べて平然としていたという。この事件を笑った落首に、「大玉池 砲を二つに 佐久間修理 この面目を なんと象山」というものがある。「大玉池」は、象山の住む「お玉が池」に「おおたまげ」をかけた洒落である。

神田お玉が池北辰一刀流千葉道場四天王塚田孔平《松代藩士》塚田先生の道場《虎韜館》へ来た象山先生が道場にあった筆を束ねて道場額を書いてくれたそうです、現在力石塚田家に象山先生直筆の虎韜館道場額があります

佐久間象山 - Wikipedia
posted by りょうまま at 04:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 諸田怜子 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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